「ジョーモンドキ」から「縄文土器」

松本隼也

「ちっちゃいばあちゃん」が良く昔の話をしてくれた。「ちっちゃいばあちゃん」は自分の体験したことをそのまんま話してくれる。だからその時の感情もリアルに伝わってくる。僕は「ちっちゃいばあちゃん」の話を聞くのが好きだった。

実は、松本家にはばあちゃんが二人いた。僕からすると曾祖母と祖母にあたる。僕が生まれて物心ついたころには、二者を区別して呼ぶために、前者を「おっきいばあちゃん」、後者を「ちっちゃいばあちゃん」と呼んでいた。僕と考古学との出会いはそんな「ちっちゃいばあちゃん」から聞いた昔の話がきっかけだった。

ある日、家の仏壇の下の引き出しを開けて、新聞紙に包まれた平べったい板状のモノを取り出して見せてくれたことがあった。ロウソクやらマッチやら、風呂敷やらと一緒に奥の方にしまわれていたそれは二つあった。どちらも新聞紙の色が黄色く変色しており、変な匂いがしたのを強く覚えている。取り出したブツを見せながら語りだして、事の経緯を教えてくれた。どうやらそれは「ジョーモンドキ」というものらしい。昔、隣の家の畑から農作業中に土器片が出土し、その報告を受けて発掘調査を実施したことがあったそうだ。その際に人足に出て発掘を手伝ったのだという。どうやら二つのブツはその時の戦利品らしい。(フィクションです。)

縄目の文様があるから「縄文土器」なのだという。本来何かを入れる器として使用されたものであるはずだが、その二つのブツは縄文土器の完形品ではなく、割れた破片の一部であったため、それ単体では土器としての機能を果たしたとはとても思えないものであった。縄目の文様を見るにしてもよくわからなかった。一体どこが縄目なのだろうと子供ながらに思った(厳密には縄文土器の文様の付け方は数多ある)。何もわからなかったが、「ジョーモンドキ」が「縄文土器」なのだということはよくわかった。

「縄文考古学」という学問領域があることを知ったのは高校三年の一学期である。当時の校長先生が還暦を迎えるとのことで記念授業をすることとなった。その最後の授業のクラスに選ばれたのが、僕の所属していた三年一組だった。授業の中で校長先生が話しだしたのは「貝塚」の話であった。「貝塚」は縄文時代の日本の沿岸部で多く見られる遺跡であり、多くの出土遺物が堆積している。もちろん縄文土器も大量に発見されており、縄文人たちの生活を解明するための重要な資料になる。

校長先生の話を聞いて分かったことは、「考古学は、土中に埋没する遺物(石器や土器、骨等)、出土状況や周囲の地形、自然環境等、あらゆる面から総合的に分析することで、はるか昔の人の営みの一端を明らかにできる学問である」ということ、そして遺跡の持つ可能性である。なんて面白そうな学問なのだろう、と思った。僕は、この学問を学ぶことを通じて、自分の家の目の前の遺跡を解釈したいと考えるようになった。僕はその日から、「縄文考古学」を志すようになった。

今、縄文を学んで思うことは、一万年以上もさかのぼるという縄文時代に生きた人と、今を生きる人と、人間としての本質は何ら変わりないということである。この広谷地三十六番地(葛尾村)にも、私と同じように顔には黒子があって、料理をして、日々を家族と過ごしていた人間がいたのである。縄文土器でイノシシ入りのキノコ鍋なんかを作り、家族でつつきながら夕食を囲んでいたのかもしれない。そんなありきたりな日常は今も昔も普遍のものだと思う。

僕の家の目の前の土器が出た場所は、「廣谷地B遺跡」という名称で呼ばれる。発掘調査報告書によれば、規模は大きくはないが、「押型文土器」がトレンドの時期に人の営みがあったことが分かっている。また、「土坑(どこう)」という穴が大量に発見されており、穴を掘り、木の実を貯蔵したり、保存食に加工したりしながら、自然の恵みを上手に利用して生きてきたことも明らかになっている。一方で、「抉状耳飾り(ピアス)」の出土も興味深い。縄文時代においてこれらの装飾品が出土することは珍しいことではないが、当該遺跡の出土石製品に占める割合が高いことが明らかとなっている。かつてこの地にはピアス制作の名人がいたのかもしれない。このように、報告書に記載のある事実からはとても人間らしい暮らしの一旦が垣間見える。僕らと同じように、広谷地の大地を踏みしめて、同じ空気を吸って、同じ風を浴び、湧き出る水を飲んで生きていたのかもしれない。

遺跡も土器も決して言葉を語らないけど、地表面の下にあるそれらは、確かな人の営みを僕らに訴えてくる。きっと、「ちっちゃいばあちゃんが」が最初に見せてくれた土器片も作り手がいたはずだ。女性か、男性か、はたまた子供か。悠久の時を超えて僕が手にした土器片は一体だれが、何のために、何を思って作られたのだろうか。僕はこの土器の作り手に、一人の人間に想いを馳せている。

はるか昔の縄文人が、二〇二二年を生きる僕ら(未来人)に向けて縄文土器や生活の痕跡を意図的に残したとは考えにくく、偶然の産物なのかもしれない。しかし僕は未来人との意思疎通を目的として、意図的に未来人と「シンクロ」したいと思う。遠い未来のある日、この地を訪れた人々が僕らの存在を感じとり、「ここにはどんな人たちが生きていたのだろう」などと話し合う姿を思い浮かべてしまった。

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